椎名雄一先生コラム『不登校に効く心理学の話』12
100回叱るか100回褒めるかは選べる
2022年9月30日
日々皆さんとメッセージのやりとりをさせていただいたり、カウンセリングをする中で気づいたことや傾向などをこのコーナーでお伝えしています。
学校に行けなくなっている状態から学校に行けるようになるまでに100段の階段があるとします。
あるご家庭では100段目に保護者が陣取って、上から手を振っています。
お子さんが2段目にきても3段目にきても頂上にはきていないので「それは違う!学校ではない!」と叱ります。
確かに学校の基準では朝起きられても出席にはなりませんし、着替えられても朝食をちゃんと食べても出席にはなりません。玄関を出て、学校の門までたどり着いて引き返したとしても出席という意味ではゼロ。全く何もしていないのと同じ評価です。教室に入り、席について授業を受けなければ基本的には出席とみなされないからです。
そのルールで考えるとお子さんは4段目でも5段目でも「それは違う!学校じゃない!」と叱られます。
実際に一段一段登っている人と頂上で待っている人とでは大変さの感覚も違うのでお子さんが20段目に到達する頃には「いつまで待っていればいいのか?」と叱られそうですね。
一方であるご家庭では1段目まで保護者が降りて行きます。
一緒に2段目まで登れればそれを喜ぶことができます。目の前で一段登ったことがわかるからです。「やった!一段進んだね!」という感じです。
2段目、3段目と一緒に登ればその都度喜べるばかりか、10段目にくる頃には息が乱れ、20段目に到達する頃には足が痛くなってくるのを共感できます。「ちょっと待って!休憩しよう」と保護者が先に言い出すかもしれません。それが階段を実際に登っている感覚です。
最近テレビの報道番組を見ていると「あの時こうすればよかったのではないか?」「こういう対策が足りなかった」という話題をよく目にします。でも実際にその時その場所でそういう観点を持つことは難しかったり、違うことが重要視されていたということもよくあります。
いわゆる「評論家」と呼ばれる人たちは距離を取ったところから正論をいいますが、その通りになるのであればダイエットも禁煙も悩む人はいないはずです。それができないのが人間ですし、その制約の中で工夫をし、葛藤をして生きていくのが人生のようにも思います。
ベッドから起き上がれなかった自分がリビングまで出てこられた喜び。
今日は少しだけ自分を好きになれたなと久しぶりに思える穏やかな気持ち。
誰とも話したくなかった自分が友だちができた時の興奮。
それらを積み上げた先に学校や将来があるのではないかと思うと頂上で手を振っているよりも一緒に階段を苦労して登ってみた方が味わい深い日々を送ることができるかもしれません。
不登校を脱した保護者がよく口にする言葉ですが不登校という経験がなかったら表面的な学歴などにこだわって、形式ばかりで中身のない人生を家族全員がおくっていたかもしれない。不登校のおかげで保護者も含めて自分自身の人生をちゃんと歩めるようになった。
これは大袈裟なことではないかなと思います。
100段の頂上に立つことよりも1段目、2段目、3段目と物語を体験していくこと共有していくことにこそ人生の価値があるように思います。少なくとも僕自身はベッドの上で世間と距離を取って過ごした日々にこそ大きな価値があったと感じます。