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学びリンクで働く!元不登校・通信制高校卒業生のつぶやき
15:養護施設に入れてください… 風穴を開けてくれたのはカウンセラー

 2023年10月24日

 


こんにちは。
学びリンク編集部で働いている、元不登校・通信制高校卒業生の柳野です。

このコラムでは、そんな私が通信制高校の専門出版社である「学びリンク」で働きながら感じたことを紹介します。

先日の合同相談会で、自分と同じように、小中学校で不登校を繰り返しているお子さんを持つ親御さんに出会いました。そのお母さまと話す中で、自分の幼少期を整理することができました。

私は鹿児島県に生まれ、3歳までは奄美大島で育ちました。“奄美大島の安らかな海のような子に育ってほしい”という願いがこめられ、「安海」と名付けられました。
でも、実際は全然安らかではなく、保育園児の頃から行き渋る子どもでした。

朝は「お母さんともっといたい」とだだをこね、お昼寝の時間は寝たふりをするのが苦痛で仕方がありませんでした。
小学生になっても「授業がつまらない」「給食がつらい」「友達がついてくるのがめんどくさい」と感じて、あまり楽しくありませんでした。

そして、不登校が本格化したのが小学2年の時でした。学校に行きたくないと思ったきっかけは、あだ名でした。でも、それは学校を休むためのただの言い訳でした。
本当の理由は、幼い頃から感じていた周りや規則に合わせるしんどさとその疲れ、親にかまってほしいという思いからだったと思います。

不登校初期は、毎朝戦争でした。担任の先生がオレンジ色の小型車に乗って、家まで迎えにきたのです。私はその車を「オレンジ号」と名付けていました。窓からオレンジ号が見えると、机の下に逃げたり、押し入れから出なかったりと大暴れ。
そして最後の砦は自分の母親でした。私の母は小学校の教員で、母が勤務している学校が私の通う小学校でもあったのです。

小学2年生ながら私は教頭先生に直接、「なんで学校に行かないといけないのか」を抗議しに行ったことがありました。「こんなにも学校に行くことが嫌なのに、お母さんは無理やり連れて行きます。そんなお母さんは私のことを愛していないと思います。養護施設に入れさせてください」と。今でも当時のことを思い出せるくらい、追い込まれていたのです。

でも、その直後に、担任の先生からすごく怒られました。「あなたのお母さんは、自分のクラスの朝の会が始まる直前まであなたのそばにいるのに。2時間目の休み時間や昼休みに迎えにいくこともあるのに。なんていうこというの!」と。幼いながらも、軽く言ってはいけないことだったと反省したことを覚えています。

私が今、その担任の先生や母を恨んだり、トラウマになったりしていないのは、その時、担任の先生が本気で怒ってくれたからだと思います。

今では、無理やり連れていくことはよいことではないとされています。確かに、私も無理やりつれていかれることは嫌でした。でも、そこで、学校に行かないと全身を使って抵抗することでしか、自分のつらさを表現する方法がなかったようにも思えます。

しかし、無理やり連れていかれるにも限界がありました。そんな状況を変えたのが、教育支援センターで出会ったカウンセラーの先生でした。 その先生がいる教育相談室に初めて行った日、私は手作りのマスクをしていきました。緑色の生地に、赤い糸でバツ印が縫われたマスク。それは私にとって、誰とも話したくない時に使う必需品でした。そんなマスクをしている私に、そのカウンセラーさんは「おもしろい」と言ってくれたのです。この人なら私のことをわかってくれるはずと思い、そこに通うようになりました。

そのカウンセラーの先生とは、もう16年の付き合いです。不登校の時は毎週のように通い、落ち着いて学校に通えていた時も学期末や学年末に顔を見せに行き、今もたまに思い悩むと頼ってしまいます。
コラム第9回:通信制高校生だった日々を今振り返って思うこと⑤私は今も不登校を執筆中に相談した時も、「いいじゃない、まだ不登校で。その考えこそ、あなたらしいよ」と肯定してくれました。

私は自己肯定感が下がると、周りに流されやすくなります。その先生は、そんな私のことを理解して、必ず、持ち上げてくれます。また、自分を信じる力を与えてくれる、そんな存在なのです。

文部科学省の調査で、不登校の児童生徒のうち約4割が養護教諭や教育支援センターなど学校内外の専門機関に相談していなかったとわかりました。

私が通っていた教育相談室のように、各自治体には無料で相談にのってくれる窓口があります。風穴を開けてくれる存在は、意外と近くにいます。もう少し信じてみませんか。